『火垂るの墓』は、太平洋戦争末期の神戸を舞台に、14歳の清太と4歳の節子が懸命に生きようとする姿を描いた作品です。
野坂昭如さんの小説を原作に、高畑勲監督によって1988年にアニメーション映画化されました。
実はこの作品には、映画を見ただけでは分からない制作上の仕掛けが数多く存在します。
原作者自身の戦争体験。
高畑監督が映画版だけに加えた「もう一人の清太」。
さらに高畑監督が亡くなった後には、制作過程を記録した7冊の構想ノートまで発見されました。
今回は『火垂るの墓』の知られざる裏設定や制作秘話を紹介します。
原作は野坂昭如の実体験がもとになっている

『火垂るの墓』は完全な創作から生まれた作品ではありません。
原作者の野坂昭如さん自身が戦時中に経験した出来事が、大きな土台になっています。
野坂さんは14歳だった戦時中に空襲を経験し、その後、幼い妹と暮らしました。
食料不足の中で妹は次第に衰弱し、やがて亡くなります。
蚊帳の中へ蛍を放つという映画でも印象的な場面も、野坂さん自身の体験の中に存在していました。
新潮社による解説でも、野坂さんが二人の妹、とくに下の妹・恵子さんを戦時中に亡くした経験から作品が生まれたことが紹介されています。
そのため清太と節子の物語には、作者自身の記憶が色濃く反映されているのです。
清太は野坂昭如本人をそのまま描いた人物ではない
実体験がもとになっているため「清太=野坂昭如本人」と思われることがありますが、実際にはかなり違うようです。
野坂さん自身も後年、『火垂るの墓』は自分の体験をそのまま書いた作品ではないことを明かしています。
実際の妹はもっと幼く、清太と節子のような会話ができる年齢ではありませんでした。
そこで小説では妹の年齢を4歳に設定し、兄妹が言葉を交わせる物語へ変更しています。
さらに野坂さんは、現実の自分は小説の清太ほど優しい兄ではなかったという強い自責の念も抱えていました。
小説の中には、
「本当は妹にこうしてやりたかった」
という野坂さんの思いも込められていると考えられます。
『火垂るの墓』は自伝そのものではなく、実体験をもとに再構成された物語なのです。
映画には原作に存在しない「もう一人の清太」がいる
映画『火垂るの墓』には、原作には存在しない大きな仕掛けがあります。
それが、物語を外側から見つめている「幽霊の清太」です。
映画の冒頭では、これから物語を経験する清太とは別に、すでにすべてを知っているような清太が登場します。
高畑勲監督が亡くなった後、自宅から『火垂るの墓』制作時の7冊の構想ノートが発見されました。
そこには、
「F清太」
という原作にはない存在が何度も書き込まれていました。
スタジオジブリも、7冊のノートから高畑監督が原作に存在しない「F清太」を意図的に作り出していたことが判明したと紹介しています。
2026年に新潮社から刊行された制作研究書でも、この「幽霊の清太」が高畑版『火垂るの墓』を成立させた重要な映画オリジナルの仕掛けとして取り上げられています。
幽霊の清太は過去ではなく「現在」を見つめている
映画の最後では、清太と節子の向こう側に現代の神戸の街が広がっています。
なぜ1945年の物語なのに、最後に現代の街が描かれるのでしょうか。
2026年に公開された新しい制作研究では、高畑監督が作り出した幽霊の清太は、単に自分たちの過去を振り返るための存在ではなかったことが指摘されています。
映画のラストで兄妹は、現在を生きている私たちの世界を静かに見つめています。
つまり『火垂るの墓』は、
「昔、戦争でこんな出来事があった」
と過去だけを描いた映画ではありません。
清太と節子の姿を通じて、
「現在を生きる私たちはどうなのか」
と問いかける構造になっているのです。
この仕掛けこそ、高畑監督が原作へ加えた大きな変更のひとつでした。
高畑勲監督は「反戦映画ではない」と語っていた
『火垂るの墓』について最も意外なのが、高畑勲監督自身の発言です。
高畑監督は生前、この作品について、
「あれは反戦映画ではない」
という考えを繰り返し語っていました。2015年に故郷・岡山市で行った講演でも同じ趣旨を述べています。
もちろん戦争を肯定するという意味ではありません。
高畑監督が疑問を持っていたのは、
「戦争で悲惨な目に遭った姿を見せれば、それだけで戦争を防げるのか」
という考え方でした。
高畑監督はインタビューで、日本が戦争末期に受けた悲惨な経験だけを語る映画では、これから起こるかもしれない戦争を防ぐには十分ではないという考えを語っています。
そのため『火垂るの墓』では、戦争そのものだけでなく、
社会から孤立すること。
人間関係が崩れていくこと。
困っている人へ手を差し伸べられなくなること。
といった問題も描かれています。
清太には「1980年代の若者」が重ねられていた
清太を見て、
「なぜ親戚の家を出てしまったのだろう」
と思った人も多いのではないでしょうか。
この行動も、高畑監督が清太という人物をどう捉えていたのかを知ると見方が変わります。
1987年の企画書では、清太について「自閉的で対人関係が苦手な現代の子どもたち」を重ねた人物として考えられていたことが確認されています。
つまり高畑監督は、清太を単純な「昔の少年」として描こうとしていたわけではありません。
周囲とうまく折り合えない。
嫌な環境から離れようとする。
自分と妹だけの小さな世界を作ろうとする。
そうした清太の姿を、映画が作られた1980年代の若者にも通じる人物として捉えていたのです。
戦時中の少年を描きながら、映画公開当時の若者にも自分を重ねられる人物として作られていました。
高畑勲監督自身も9歳で空襲を経験していた
『火垂るの墓』に戦争体験を持ち込んだのは、原作者の野坂昭如さんだけではありません。
高畑勲監督自身も空襲を経験しています。
1945年、高畑監督は岡山市で9歳の少年でした。
空襲によって家族とはぐれ、11歳の姉と二人で逃げています。
逃げた先にも焼夷弾が降り、高畑監督本人が後年「よく助かった」と振り返るほど危険な状況でした。
その経験は、『火垂るの墓』で描かれる空襲の場面にも生かされています。
高畑監督は爆撃の派手さだけではなく、焼夷弾が落ちる様子や火が広がっていく過程まで、できる限り現実に近づけようとしました。
つまり映画には、
野坂昭如さんの神戸での記憶
と、
高畑勲監督の岡山での記憶
という二人の戦争体験が重なっているのです。
ドロップ缶は映画版でさらに重要な存在になった
節子が大切に持っているドロップ缶は、『火垂るの墓』を象徴するアイテムです。
映画では楽しかったころの記憶から物語の最後まで、何度も登場します。
しかし、このドロップ缶を物語全体へ繰り返し登場させる構成は、映画化にあたって高畑監督が強く押し出した仕掛けのひとつでした。
2026年に刊行された制作研究書でも、
「幽霊の清太」
「幾度も登場するドロップ缶」
「蛍の光」
が映画版独自の重要な仕掛けとして紹介されています。
小さなお菓子の缶が、
節子の楽しみ。
兄妹の思い出。
そして物語そのものをつなぐ道具へ変化しているのです。
映画を見直す際には、ドロップ缶がどの場面で登場するのかを追ってみると、また違った作品の見え方ができます。
重巡洋艦「摩耶」を描いたのは庵野秀明
清太の父親は海軍大尉で、重巡洋艦「摩耶」などに乗っていたという設定です。
映画では清太が父親を思い浮かべる場面で、海を進む軍艦が描かれます。
その「摩耶」のレイアウトを担当した人物が、後に『新世紀エヴァンゲリオン』を手がける庵野秀明さんです。
庵野さんは『火垂るの墓』へ原画スタッフとして参加していました。
長い間所在が分からなくなっていた「摩耶」のレイアウトが近年発見され、2025年に開催された「高畑勲展」で初公開されました。
『風の谷のナウシカ』にも参加していた庵野さんが、『火垂るの墓』にも関わっていたという意外なつながりです。
節子を演じたのは本当に5歳の女の子
節子の独特な話し方も、『火垂るの墓』のリアリティを支えている要素です。
節子を演じた白石綾乃さんは、映画公開当時わずか5歳でした。
節子自身も4歳という設定なので、ほぼ同年代の女の子が声を担当したことになります。
清太役の辰巳努さんも当時16歳で、清太の14歳と近い年齢でした。
さらに二人とも、物語の舞台に合わせて関西地区の出身者から選ばれています。
大人の声優が子どもらしい話し方を作って演じるのではなく、実際の子どもの声を使用する。
高畑監督が作品全体で追求した現実感は、声の演技にまで徹底されていたのです。
『となりのトトロ』と同時に作られていた
現在ではまったく異なる作品として知られる、
『火垂るの墓』
と、
『となりのトトロ』。
実はこの2作品は同時に制作されました。
スタジオジブリは長編映画を2本同時に作るため、1987年に第2スタジオまで設置しています。
そして1988年4月、『となりのトトロ』と『火垂るの墓』は2本立てとして同時公開されました。
自然の中で不思議な存在と交流する姉妹の物語。
戦時下で懸命に生きようとする兄妹の物語。
現在では対照的に見える2作品を、当時の観客は同じ日に映画館で見ていたのです。
制作の方向性がまったく違う長編アニメーションを同時に完成させようとしていたことも、当時のスタジオジブリの特殊な制作状況を物語っています。
最初に上映された『火垂るの墓』は現在の完成版と違っていた
そして近年、新たに分かった非常に驚くべき制作秘話があります。
1988年4月に最初に劇場公開された『火垂るの墓』は、現在見られる完成版と完全に同じ状態ではありませんでした。
制作が公開日に間に合わず、一部が線画の状態で上映されていたのです。
2026年に新潮社から刊行された制作研究書では、当時の上映フィルムまで発見されています。
調査の結果、
線画のまま公開された3つのシーン
が存在したことが確認されました。
さらに制作終盤には、約10分もの映像が土壇場でカットされていたことも明らかになっています。
つまり1988年に映画館で最初の『火垂るの墓』を見た観客は、現在私たちが見ている作品とは少し違うバージョンを見ていたのです。
公開から40年近く経ってから明らかになった、非常に興味深い制作秘話です。
まとめ:火垂るの墓は過去だけを描いた映画ではない

『火垂るの墓』は、野坂昭如さん自身の戦争体験を大きな土台として生まれました。
しかし清太は野坂さん本人をそのまま描いた人物ではありません。
映画化した高畑勲監督も自身の空襲体験を作品へ重ねながら、原作には存在しない「幽霊の清太」という仕掛けを加えました。
そして高畑監督が亡くなった後に7冊の構想ノートが発見されたことで、作品がどのように作られていったのかも少しずつ明らかになっています。
幽霊の清太。
繰り返し登場するドロップ缶。
現代の神戸を見つめる兄妹。
さらに公開当時には線画のままだった場面まで存在しました。
こうした裏側を知ると、『火垂るの墓』は単に戦争の悲惨さを伝えるだけの作品ではないことが分かります。
社会から人と人とのつながりが失われたとき、子どもたちはどうなるのか。
そして現在を生きる私たちは、清太と節子の姿から何を受け取るのか。
公開から長い年月が経った現在でも、その問いを観客へ投げかけ続けている作品なのではないでしょうか。





















